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清水孝雄教授 退職記念誌 挨拶文

ご挨拶
昨年3月の退職記念事業 (最終講義、祝賀会)では大変お世話になりました。ほぼ同時期に教授になり、同時に退職した岡山博人、三品昌美、谷口維紹の三教授とご一緒に記念行事を行えたのも貴重な思い出です。遠慮してお声かけをしなかった遠方からの方も含め400名を越える方がお集まり下さり、私どもの退職をお祝いして下さいました。また、同窓生の方も多数集まって下さり、海外留学中の方からは温かいメッセージを頂きました。会では沢山のご祝辞を頂きましたが、特に印象に残ったのは恩師早石修先生のお言葉です。「私は現在、94才ですが、大阪バイオサイエンス研究所で毎日研究をしています。皆さんはまだ30年あるではないですか」これは生涯研究者としての先生の真っ直ぐなお言葉ですが、私たち4人への励ましであるだけでなく、参加者全員に勇気を与えて下さったと思います (写真172ページ)。
細胞情報学の教授は退職しましたが、その後、リピドミクス社会連携講座の特任教授となり、また、東大理事・副学長を兼務し、相変わらず多忙な日が続いていましたので、退職という実感はなかなか持てなかったのですが、この記念誌が出る頃には、本務は新宿の国立国際医療研究センターへ移していることになると思います。長い東大の生活でしたし、思い出は尽きないのですが、その一部をまとめることとします。
1.東大内科から京大へ
赤髭的医師を目指して、医学部に入りましたが、フリークォーターで経験した実験の面白さ、また、2年間の研修で感じた臨床医学の限界、アウエイの京都で過ごしたいという気持ち等が重なり、京大医化学でお世話になることとなりました 〔鉄門だより 「定年退職にあたり」 (143ページ)、第三内科同窓会だより (144ページ) 参照〕。早石道場での経験は他では得難いものでした。全国の多くの大学や海外から若者が集まり、切磋琢磨していました。私は山本尚三助教授の指導の下、プロスタグランディンの研究を始めました。月曜日から金曜日までの毎日、早石研、沼研の合同ランチセミナーがありました。いくつかの論文の内容を紹介するのですが、実験の組み方、結果の解釈の仕方、討論は正しいかなど、実に厳しい質疑討論が行われます。無理に筆者の立場に固執し、客観的に論文を評価できないと容赦なく批判され、時に翌日に持ち越されます。恐怖のセミナーでした。ここで初めて、論文は批判的に読むということを勉強しました。外国人研究者のセミナーが多いのも刺激でした。ハードワークというのがもう一つのキーワードです。若手はだいたい朝から夜中まで実験をしていました。真夜中に百万遍へ中華料理を食べに行き、戻って来てから低温室にこもりタンパク精製をするという次第です。なにせ、研究室には風呂があったのです。医化学教室は3階建てで、沢山の研究室に分かれていましたが、早石先生は毎日、夕方には実験室を順番に回られ、「どうや、何か新しいことは?」と一人一人に聞かれていました。「文献を読むのも重要だが、オリジナルなことをしようと思ったら、自分の実験結果を丹念に観察し、その中から課題を探すことだ」というのが教室の方針でした。
京大にいる頃には沼正作先生や中西重忠先生にも大変可愛がって頂きました。丁度、我が国の分子生物学勃興期です。
2.カロリンスカ研究所へ留学
1981年に、アメリカのいくつかの大学やNIHを訪問し、セミナーをしました。早石先生が当時の遠山国際課長 (後の文科大臣)に海外渡航費補助を直訴して下さったのです。NIHでは同級生の武谷雄二先生や春日雅人先生ともお会いしましたし、セントルイスでは当時助教授をされていた廣川信隆先生ご夫妻に美味しいステーキをご馳走になりました。アメリカのいくつかのラボ、フランスのパスツール研など、随分迷いましたが、最終的には、カロリンスカ研究所留学を決めました。スウェーデン留学体験記 (135ページ)をご覧頂きたいと思いますが、留学の最大の成果は、研究と共に、異なる文化に接したこと、また、多くの友人を得たことかと思います。彼らとは未だに交流が続いています。34才から、ある程度業績をあげてからの留学は待遇面ではプラスですが、全く新しい事に切り替えるにはやや遅い気がします。治安も良く、女性や子供にも優しい国でしたので、私が帰国した後も家族はスウェーデンに残り、長女はスウェーデンの高校を卒業しました。サミュエルソン教授は、 「新しい方法の開発が新しい発見に繋がる」という方針を常に堅持しておられました。当時質量分析計は非常に有効な手段でしたし、また、ファルマシアから発売直前のFPLCをお借りして、それまで精製の難しかったタンパクの迅速単離にも成功しました。低温室に籠もる必要はなくなったわけです。
3.東大へ助教授で戻る
早石先生からはERATOプログラム (プログラム自体が、この頃スタートしたはずです) で京都へ戻るようお誘いがあり、また、第三内科の高久史麿先生からは呼吸器へ転換するようお誘いがありましたが、最終的には脊山洋右先生の主宰される東大栄養学の助教授となりました。山川民夫先生が仲介して下さり、また、栄養学教室は元々早石先生が京大と兼任をされていたという点で魅力がありました。脊山先生は私に自由に研究をさせて下さいましたが、 「基礎となる構造や定量が不正確で、生物学を作り上げるのは砂上の楼閣を作ることになる」 と常に話されていたのが印象に残っています。私自身はその通り、ロイコトリエンの定量系の開発、合成酵素のcDNAクローニングなどの研究を進め、いくつかの新しい成果を挙げました。当時はキーストンシンポジウムの代わりに、「プロスタグランディン冬季カンファランス」 というのが毎年ありましたが、私の発表は注目されていたように思います。残りの10%のエフォートで脊山教授の研究のお手伝いをしましたが、モルモットハーダー腺を用いたアシル転位酵素の研究やアルキルエーテルリン脂質の生物活性の研究は、後のPAF受容体クローニングや、現在のリン脂質代謝の仕事に繋がります。PAF受容体クローニングは大ヒットの一つですが、京大中西研でアフリカツメガエル卵母細胞の発現系を教えて頂き、当時の東大脳研究施設の高橋國太郎先生のお部屋で電気生理の実験をさせて頂いた成果です。
4.東大教授
1991年に永井克孝先生の後任として、第二生化学 (現在の細胞情報学) の教授に選ばれました。当時、私は医科研の上代淑人教授の後任候補ともなっており (どちらも、自分で応募したわけではないのですが)、先に医科研の投票があることも聞いていました。求めてくれる以上、選ばれた方に行く、と言う自然体で臨んでいました。運命とは不思議なものですが、12月末の医科研選挙で落選し、1月初旬の医学部の選挙で当選しました。先に述べたPAF受容体クローニングがネイチャー誌に載り、ロイター電で大きなニュースになったのも1月初旬で、大変忙しい時期でした。論文が掲載され、教授に選ばれ、また、東レ財団から当時としては破格の2千万円の研究費を頂くことになりましたが、財団選考委員長だった今堀和友先生 (第二生化の初代教授) から、 「何重にもおめでとう」 と優しいお言葉を頂きました。研究費も取れるようになり、研究室は徐々に整備され、教室には若手研究者や学生、また、企業や臨床からの研究者も増え、活気に溢れてきました。PAF受容体欠損マウス樹立、ロイコトリエンB4受容体クローニング、ホスホリパーゼA2欠損マウス樹立などが次々にネイチャー誌や姉妹誌に載りました。年間の論文数は10編を越え、総インパクトファクターも年間130を越えました。研究室ではラボマニュアルや試薬管理システムがオンライン化され、また、4月には全員を対象に、一日かけて研究室の歴史、機器の安全な取扱い、倫理指針や試薬管理などについてガイダンスを行う慣習も開始していました。教室のセミナーも英語化されました。
ホスホリパーゼA2、5-リポキシゲナーゼ、ロイコトリエンA4水解酵素、ロイコトリエン分解酵素などの代謝の研究から、生理活性脂質受容体 (PAF、BLT-1, -2、LPA4, -6、TDAG8、G2A、CysLT1, -2等) へと研究の重点は移って行きましたが、2006年に最初のリゾホスファチジルコリンアシル転位酵素 (LPCAT1) の単離を契機に、リン脂質代謝 (ホスホリパーゼA2とアシル転位酵素、ランズ回路) へと重心を戻し、膜リン脂質の多様性と非対称性のメカニズム及びその生物学的意義の解明を今後の研究の中心にしたいと思っています。幸い、京大時代より共同研究の実績や親交のある島津製作所と小野薬品工業が寄付講座や社会連携講座を作って下さいました。現在では、100種類以上の生理活性脂質の高感度同時定量、また、数百のリン脂質の組成比の解析などが可能となっています。これらの研究は現在も続いており、国立国際医療研究センターや東大医学系研究科社会連携講座 「リピドミクス」 へと引き継がれていきます。
5.管理的研究者
2003年に東大評議員に選ばれ、また、医学部附属疾患生命工学センターの初代センター長となりました。疾患生命工学センターは、医学部、病院、工学部が定員を10数名供出し、設立された大きな医工融合研究センターです。桐野高明元医学部長の頃、谷口維紹教授、永井良三教授らとプランニングをしました。国立大学法人化前の最後の概算要求が通り、6名の教授純増がありました。6つの教授ポジションに海外からも含めて80名を越える応募があり、書類選考と面接で新任教授を選びました。良い教員を選ぶこと、研究場所を確保すること、新任教員へのセットアップ費用の確保など苦労しましたが、その後、グローバルCOE、プロジェクト型多分野融合等の拠点となり、10年目を迎える現在さらに発展しています。また、病院敷地内に新たに作られるCRC (Clinical Research Center) へ数年後には移転する予定となり、基礎と臨床をつなぐ研究は益々発展すると思います。
2007年には教授会で医学系研究科長・医学部長に選ばれました。迷いや悩みはあったのですが、私が若手教授になった頃、研究環境の改善に取り組んで下さっていた遠藤實元医学部長を始め諸先輩のご尽力を考えると、自分を育ててくれた医学部への何らかの恩返しは必要と思い、引き受けました。東大医学部のミッションは研究を発展させ、医学部学生の研究心を涵養することであり、特に全国的に激減する基礎医学者を増やすことに焦点を絞りました。東大の中で育成システムを作ると同時に他大学の医学部長と連携し、政府の医師育成施策への働きかけも行ってきました 〔NHK視点・論点 (127ページ)、朝日新聞 (131ページ)、鉄門だより (139-143ページ) など参照〕。いくつかの育成プログラムが出来、部分的ですが、政府や民間からの経済的支援も開始されました。医学生は様々な可能性を持つ「幹細胞」です。彼らが、グローバルな視野を持ち、様々な分野で活躍する人材になることを期待しています。医学部長時代の楽しい思い出と言えば、2008年、東大医学部150周年記念事業でしょうか。安田講堂での記念式典では、皇太子殿下をご先導するという大役を仰せつかり、また、ご挨拶も致しました。記念講演をお願いに、大江健三郎先生のお宅に伺い、署名入りのご本を頂きました (124ページ)。50年に一回の機会にたまたま巡り会わせた幸運を感じたのもこの頃です。2009年には日本学士院賞を頂く名誉も授かり、再び皇居内で両陛下を初め皇族の皆さまとお話し出来ました。
2011年からは2年間、濱田純一総長を補佐して、大学運営に携わりました。担当は学術企画と病院。この他、図書館、博物館、環境安全、保健健康など沢山ありましたが、 「秋入学」 という言葉に象徴される教育改革が大きな課題となりました。経済の停滞、グローバル化、少子化の中で大学はどう変わるべきかを考える機会です。東大は長らく、国内偏差値上位者を採れていることで満足し、国際的に通用する人材を十分に輩出してこなかったのではないか、超高齢化社会やエネルギー危機など新たな課題に挑戦できる志と能力を持った学生をどれだけ育てられたのだろうか、という強い危機感を私は持っています。実際、様々な指標で見る限り、東大の教育の国際化は世界の大学 (日本の有力大学と比べても) の中でも著しく遅れています。「秋入学」 というのは「大学開国」の宣言でもあり、教育改革のシンボルです。東大が、新しい方向を速やかに出すことを期待しています。
6.忘れえぬ恩師達
学生時代以来、多くの先輩や先生方にお世話になってきました。既にお名前を挙げさせて頂いた方の他に、強く印象に残り、様々な影響を与えて下さった四人の故人の思い出を簡単に記させて頂きます。
森亘先生 (享年86才)
カロリンスカ研究所から帰国して、助教授になった時に医学部長をされていました。その後、総長をお勤めになった後も、 「新渡戸・南原基金」 顧問、日本学士院会員、日本医学会会長として、日本の医学全体、そして東大や鉄門倶楽部をご支援下さいました。鉄門倶楽部100周年記念事業講演会会長として、鉄門講堂などの建設にもご尽力下さり、平成18年には東大より 「稷門賞」 を受賞されています。私が医学部長 (鉄門倶楽部会頭兼任) になってからは、副会頭として鉄門倶楽部の理事会には必ずご出席下さり、色々意見が出て困っていると、ひと言ご助言を下さいました。バランスのとれた品性をおもちで、静かに筋を通されるというのが私の印象です。教育大付属高校の先輩でもあり、その面でも親しみを感じさせて頂いていました。森宏之先生とご一緒に付属同窓のよしみでお酒を飲みに行ったのも良い思い出です。
吉川政己先生 (享年83才)
私たちが学生の頃は、卒業時に研修医と病院が研修協約という一種の労働協約を結ぶのが通例となっていました。「1.卒業生全員の研修を保証すること」 などと今では考えられない協約ですが。東大紛争が元々、古い医局制度、学生への退学処分などに象徴される教授会の封建体質にあったため、研修医=労働者の権利を守るという趣旨で、この様な協約が出来たのだと思います。私はクラスを代表して、言わば「労組委員長」として、この協定の締結や労働条件の改善について、当時の病院長の吉川先生と団体交渉をしていました。先生は真摯に研修医の意見を聞いて下さり、また、針刺し事故後におこる肝炎で休暇中の医師の生活保障と労災認定に協力して下さいました。(当時は因果関係は不明でしたが、60才近くになって友人の何人かが肝ガンを発症しています。) 先生は老年病学を日本で最初に設立された教授で、臨床研修で老年病科を半年回った時も、厳しく、しかし温かく指導して下さいました。
鴨下重彦先生 (享年77才)
鴨下先生は私が山で滑落して、東大病院に入院していたときの医学部長です。お見舞いに来て下さる方の多くは 「美術館もの」 「奈良・京都旅行」 などをお土産に置いていって下さるのに、鴨下先生は 「山と渓谷」 の最新号を持って来て下さいました。家内が来ると、すぐに逃げる様に帰って行かれましたが。(余談ですが、信州大学に入院しているときも、お見舞いに来られた寺脇教授は 「槍ヶ岳」 の写真集を贈呈して下さいました。)先生とは登山や大学教育について良くお話しをしましたし、廣川先生、鈴木邦彦先生との飲み会も楽しい想い出です。単独行がお好きで、ミレニアムの年の元旦には雪の七面山にいらっしゃいましたし、つい数年前は11月に氷雪のザイテンを歩かれていました。日本二百名山を踏破され、 「岳人」 などに沢山の山行記を書かれています。また、矢内原忠雄先生の聖書研究会に通い、信仰と同時に教養教育の重要性も引き継いでおられました。先生のお考えは、戴いた二冊の本にまとめられているように思います。「社会的共通資本としての医療」 (宇沢弘文氏と共編)、 「南原繁の言葉—8月15日・憲法・学問の自由」 です (共に東大出版会)。先生とはもっとお話しがしたかったし、学生にお話しを聞かせたいと思い、2012年6月の鉄門総会の記念講演をお願いしました。2011年10月に 「来年の講演は無理だと思います。多分、生きていない」 とお電話を戴いたのですが、それが先生とお話しした最後でした。ひと月後の11月、先生はご逝去されました。「3. 11」 以降の今の政治や世情どう考えるか、先生にお聞きしたいと思うことが良くあります。
黒川髙秀先生 (享年71才)
病院長、医学部長を務められ、医学部改革に大きな力を果たして下さいました。新病院の建築、基礎医学の教育研究棟の設立にも奔走されました。若手教授時代には先生のトップダウン的な進め方には多少反抗することが多かったのですが、時代が経つにつれて先生の高潔で哲学者たる所以が分かるようになってきました 〔黒川髙秀先生への弔辞 (145ページ) 参照〕。告別式と偲ぶ会で奥さまがお話しになったことに私は大きな衝撃を受けました。先生は東大退職後、2002年の秋に交通事故にあわれ長い間植物状態となられていたのですが、医師団の懸命の治療とご家族の看護により、かすかに動く指を用いて、携帯電話ボタンの原理によるコミュニケーションがご家族と成立したそうです。先生は病床でも哲学を考え、「愛の本質は許し」という事をご家族にお伝えになったと聞いています。先生は肺炎で亡くなられましたが、最後の瞬間まで意識は御清明だったと思います。
7.最後に − 研究室でよく使った言葉
書ききれないことは多いのですが、波乱に富んだ40数年でした。礼節をわきまえず、天真爛漫に生きて来ましたので、ご不快に思われた方も沢山いらっしゃると思います。九死に一生を得たこともあります。同僚や家族には大変ご迷惑をおかけしましたが、運のよさを思い、その分強くなりました。元々、ずば抜けた能力や戦略の無い研究者ですが、こうして無事に退職出来るのは、同僚、スタッフや学生諸君のお陰です。私は常に研究室では、 「志は高く、姿勢は低く」 「失敗に挫けず、成功に自惚れず」 という事を言い続けてきました。現代生物学は個人のひらめきで進むものではなく、良いチームワークが必要です。お互いに助け合う必要があります。それには 「人間力を高めなくてはいけない」 と思っています。また、 「水を飲むときは、井戸を掘った人のことを忘れない」。私が脂質研究分野でのパイオニアの名前を必ず引用するのはこうした理由です。そして、 「どんな経験でも必ずプラスになる」 という楽観主義と 「迷ったら、前に進む」 という前向きさも重要かと思っています。これは私の生きる上でのモットーでした。

4月からは主な研究場所を 「国立国際医療研究センター」 に移し、残りの研究人生を膜脂質研究と後輩育成にあたりたいと願っています。引き続きご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。

なお、本記念誌は和泉孝志、横溝岳彦、石井聡、中村元直の四氏をはじめ、多くの教室スタッフやメンバーのご尽力で出来たものです。今まで長い間、お世話になったことも含めて、心から御礼申し上げます。
平成25年 春