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ポストゲノム時代と脂質生物学

炎症・再生、21巻p.9 2001年、エディトーリアルより
東京大学大学院医学系研究科 生化学・分子生物学講座 教授 清水孝雄

ポストシークエンス時代到来間近

6月末にクリントン、ブレヤーの両首脳と、セレーラ社のベンター会長が共同会見をし、既にヒトゲノムの95%以上は解読が終了したことを発表した。実際の研究面でもまた、経費の面でも大きな貢献(既に700億円を超えている)をしている日本の首脳の顔が無いことと、一ベンチャー企業の会長が首脳と共に会見を行う異様さは、そのままこのヒトゲノム計画の歪さと現状を象徴しているが、これについては後にまたふれたい。ヒトゲノムと言っても、これは一人の欧米人の塩基配列にすぎないのである。加速するゲノム配列解析速度は、シークエンサーの飛躍的な能力向上によるところが大きいが、おそらくは向こう1年以内に、このヒトゲノムの全塩基配列が明らかとなるであろう。この成果は未知の点も多いが、医学全般に与えるインパクトは極めて大きいことが予想できる。臨床的には、パネル的遺伝子診断、生活習慣病などの多因子疾患の素因解析、さらに、本来あるべき姿であるオーダーメイド医療などは既に現実の研究課題となりつつある。この転換期の時代にあって、基礎医学、臨床医学、あるいは創薬に携わるものは、どのような戦略で研究を進めていくべきなのだろうか。

塩基配列から見えるもの

全塩基配列配列が明らかになってもどこが遺伝子であるかがすぐわかるわけではない。また、タンパク情報が明らかになるわけでもない。その点では、世界的にデータが開示されているEST (expressed sequence tag) 情報や、上総研究所、東大医科研、ヘリックス研究所などを中心に我が国で進められている全長cDNAデータベースが威力を発揮するであろう。しかし、塩基配列だけで、予想できるタンパクも数多く存在する。それはGタンパク共約型受容体(GPCR, G-protein-coupled receptor)、転写因子、リン酸化酵素あるいは核内受容体など非常に特徴的な構造を持っている分子群である。GPCRは線虫ゲノムや他の種からの類推だと、約5%の遺伝子、すなわち、2千個から5千個(実際は千個であることがわかった)、転写因子は数百個あると考えられ、その極めて特徴的な一次構造から受容 体である推測が容易である。推測が出来れば、PCRで遺伝子を簡単に入手でき、その発現パターン、組織分布、疾患での発現などから、標的を絞ることが出来る。遺伝子チップも標的を絞るのに役立つであろう。すると、当然のことながら、次ぎに大切なことは受容体のリガンド探索になるであろう。実際、数百のGPCR、また、ほとんどの核内受容体は、そのリガンドが不明のいわゆる「孤児受容体(オーファンレセプター)」である。

脂質生物学の発展こそ、日本の重要課題

核内受容体の大部分は脂質がリガンドであり、GPCRの一部もまた未知の脂質がリガンドである。プロスタグランディン、ロイコトリエン、血小板活性化因子(PAF)、リゾリン脂質(LPA、スフィンゴシン1リン酸)、カンナビノイドなどの受容体が次々と発見され、クローン化され、また、その遺伝子欠損マウスが作成されてきた。そして、その多くの研究が我が国でなされてきたのである。これら脂質メディエーターは神経伝達物質やホルモンと協調しながら、生体の微妙な舵取りを果たしている。細胞の生死には直接関係しないかもしれないが、Quality of Lifeを決めるのが脂質メディエーターである。また、LPAは細胞の増殖や分化に、スフィンゴシン1リン酸は血管新生に関与していることが報告され、本学会のテーマである「炎症や再生」との接点も多い。まだ、数多くの孤児受容体があることは、我々の知らない脂質メディエーターが存在していることを示唆している。コレステロールや胆汁酸の誘導体にも受容体があることが見つかったことは記憶に新しい。新しい脂質メディエーターを探索するには、臓器より脂質成分を単離し、それを丹念に精製していく生化学的な研究から始めなくてはならない。これこそ、日本人が得意としてきた分野であり、今、放置しておくと消えてしまうかもしれない重要な技術分野なのである。GPCRはもちろん、タンパクやペプチドがリガンドともなる。しかし、タンパクやペプチドの構造はゲノムの中にしっかりと埋め込まれている。脂質メディエーターは産生酵素、分解酵素、運搬体などの遺伝情報が埋め込まれているが、メディエーターそのものは塩基配列からは影すら見えないのである。そこには、コンピュータ科学では追跡できない人間の科学の醍醐味がある。

日本は、ヒトゲノム計画は80年代に始まり、出だしは早かったのに、大きく乗り遅れてしまった。それが、先の歴史的な記者会見でも示されている。これは官民の良い共同体制を作れなかったことを初めとする、明らかな国策のミスである。しかし、幸いにも脂質生化学の伝統は日本に根付いており、しっかりした技術が蓄積されている。LPAが徳島大の徳村により、また、カンナビノイド受容体のリガンドであるアラキドン酸含有グリセロールが帝京大の和久、杉浦により発見された例を出すまでもない。古典的とすら呼べる研究手法は、実はポストゲノムの時代に最も必要とされている技術の一つである。脂質生化学は他の分野と比べて、研究速度が遅く、また、地味な分野である。こうした研究分野を人材面で、資金面で支えるのは国の科学政策であるはずだ。脂質生化学者が分子生物学、遺伝子工学と結びつき、ゲノム情報を最大限に利用しながら進む次世紀の「脂質生物学」は、新しい研究の突破口となり、また、日本発の創薬の糸口になろう。